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九州大学 基幹教育院 次世代型大学教育開発センター > 【開催報告】リベラルサイエンス教育開発FD「今、教養教育に求められるもの:イギリス教養史にみる科学の受容から」

【開催報告】リベラルサイエンス教育開発FD「今、教養教育に求められるもの:イギリス教養史にみる科学の受容から」

令和4年3月11日に、リベラルサイエンス教育開発FD「今、教養教育に求められるもの:イギリス教養史にみる科学の受容から」を開催しました。

本FDでは、主にイギリスを対象として教養概念の研究に取り組んでいる千里金蘭大学 本宮裕示郎先生をお招きし、19世紀において、伝統的に「文学」を主とする教養概念を有してきたイギリスが、どのように「科学」を受け入れることになったのか、主として「科学」推進派と「文学」擁護派の対立と見なされてきた自由教育論争などをご紹介いただきながら、現代社会における教養教育のあり方や科学との関係性について議論を深めました。

 

┃開催概要

【日時】令和4年3月11日(金)13:00 ~15:00
【会場】Zoomミーティング
【対象】 教養教育や科学教育に関心のある大学教職員、教育関係者、研究者
【講師】本宮裕示郎(千里金蘭大学生活科学部 助教)
【コメンテーター】
小湊卓夫(九州大学 基幹教育院 次世代型大学教育開発センター 副センター長)
長沼祥太郎(九州大学 教育改革推進本部 講師)

 

┃プログラム

  1.  開会挨拶
    原田恒司(九州大学基幹教育院 次世代型大学教育開発センター リベラルサイエンス教育開発モジュール長)
  2.  ご講演:「今、教養教育に求められるもの:イギリス教養史にみる科学の受容から」
    本宮裕示郎(千里金蘭大学生活科学部 助教)
  3.  コメンテーターによる討論
    小湊卓夫(九州大学基幹教育院 次世代型大学教育開発センター 副センター長)
    長沼祥太郎(九州大学教育改革推進本部 講師)
  4.  総合ディスカッション
  5.  閉会挨拶

 

┃開催報告
【参加者情報】合計76名

【アンケート結果(抜粋)】

〇参考になった内容

  • 科学の時代にあって、科学と教養の関係は普遍的な問題だとあらためて思いました。
  • 科学教育についてすでにこのような議論が100年以上も前からされてきたというのは興味深かったです。一方で、この議論についてはある意味、今でも明確な答えを出せてはいないというのも、この議論を含めた教養に対する考え方、取り組み方の難しさを感じました。
  • 大学で理科教育に関係することを教える必要が生じ、以前に、科学教育(理科教育)が初等中等教育、そして大学教養になぜ必要なのかについて学ぶ過程で、ハクスリーの考えと(少し)歴史についても学んだのですが、当時は十分に理解したと思えませんでした。先生のご講演でハクスリーとアーノルドの論争を通して様々考えることができ、とても理解が深まりました。ありがとうございました。
  • 態度と価値観に関する部分、人間<社会<自然という範疇での整理等の知見を得た。
  • ハクスリーとアーノルドの人間観はおもしろかった。アーノルドのように能動的な人間観をもった方が教養教育も人生も何事もうまくいく感じがした。ただ、ハクスリーの啓蒙的な科学観の涵養も、教養教育に必要だとは思う。生き方としての教養も大事だが、教養を身に付けた方が生きやすい社会を大学人が率先してつくったり行動で示していかないと、上から目線になってしまい、若者に伝わらないとも感じた。

 

〇「今、教養教育に求められるもの」について考えたこと

  • 科学的な方法論や考え方を身につけることが第一だと考えます。その際に取り扱う題材は最先端の科学である必要はなく、身近な自然現象やさらにいうと文学であってもいいと思います。そうすれば自己の内面を分析し理解することにもつながると思います。
  • 複数のコンテンツを統合する工夫や仕組み。例えば、今日の講演で言えば、科学教育と文学教育を繋げる工夫や仕組み。
  • 今は人間に関する科学的な理解もだいぶん進んでいるので、ハクスレーとアーノルドの時代に比べれば、自然科学的な見方と人文主義的な観点を融合させるのは難しくなくなってきているように思います。というわけで、自然科学をベースとした総合的な視点を身に付ける教育が求められていると思います。
  • 「教養」の意義そのものを学生に伝える努力が、もっと必要なのかもしれないと感じた。
  • 学問という巨人の肩に乗るための一般的な態度を養うことが、文理を問わない教養教育が目指すべきところではないかと考えました。
  • やはり最後のディスカッションにあったように、教養は何のために必要なのかという思索を各大学も、日本全体でも重ねなければならないと考えます。
  • 教養教育について議論する私たち自身にしかるべき教養があるのかどうか、教養で何かを為す力量があるのかどうか、日本の中産階級以上の生成過程の批判的な問い直しが必要だと感じました。
  • 今回の講演内容であるイギリスでの教養教育の議論の発端となったイギリスの科学力の低下は、今の日本にも当てはまる状況に感じます。この点だけを見れば文系・理系を問わず教養教育として科学をより重視すべきとも取れますが、一方で本来の教養の意味を考えると、それだけに偏るのも、また不健全な状況に思われます。現時点では私自身、明確な答えが出せておりませんが、今後に向けて自分なりの考えを持っていきたいと思います。
  • それぞれの大学の教育目標に沿った内容の21世紀の教養教育が必要だとの思いを強くしました。これまで、古代ギリシア・ローマ時代の市民層、中世の大学、さらには古典古代の再生を目指したルネサンス人文主義が求めたリベラルアーツ、そして、科学革命・産業革命・市民革命を経験した後の近代社会が要請する教養教育があったわけで、グローバル化した21世紀に求められる教養教育の内容は時代の要求にあわせて大きく変化していくのは当然のことです。20世紀までの枠組みでカリキュラムを編成することには疑問を感じています。
    いろいろ考えるための材料を与えてもらえました。ありがとうございました。
  • 最後の「生き方としての教養概念」に非常に共感を覚えます。自然の一部としての人間、人間の営みではあるものの、人間それ自身が自然そのものであるので、宇宙とか人間とかを知り、理解したと納得できるためには自然科学・人文・社会の様々な知識や考え方が必要で、様々な学問分野の個々を学びだけでなく、相互作用を起こし理解していく学びではないかと思います。
  • 専門と教養という対比で考えると、専門とは既存の知識の体系に過ぎないと思う。それを広げたり、新しい視点で再構築したりするときには、専門と異なる知識は本質的な役割をするのではないかと思う。私は大学の工学部で物理と基礎的な数学を教えているが、工学では社会にある問題を鋭敏に察知して、自分の持つ技術を適用させることが重要で、そのためには貿易や国際関係、政治などといった様々な専門外のこと、つまり教養を広げるようにアンテナを張っておく必要がある。工学にとっては数学や物理も教養の一つと思うが、新しいことを全くせずに、既存のことを既存の方法でやっていくだけであれば、おそらく教養は不要だと思う。何か新しいことをやるためには、どれだけ専門の外に知識を広げているかが重要と思う。
  • 学問とは、人間とそれを取り巻く社会や世界を見るための、一側面を学ぶこと(社会を見るための軸を持つこと)であると考えています。そういった意味では、専門を1つしっかり持つことと、教養として多様な学問に触れることが大切と考えています。一方でリベラルアーツ学部が増えていますが、この学部で学ぶ学生の物事の見方や考え方がどのようなものか気になります。その長所や短所を知りたいと考えています。
  • 以下、非常に素朴な議論で恐縮です。教養とは何か、教養の定義、教養の意味については、確かにいつの時代でも一言では言えない難しい問題です。それはおそらく、社会と世界と時代の中で、またそれらと共に生きる人にとって、何を身につけるべきか、何を教養とすべきかは、その時代と社会によって、またその人が属する環境によって異なるという側面があるからでしょう。他方、教養または教育内容における不易流行という視点も重要です。 「教養」をできるだけ実感に近いかたちで納得するには、その一つの手掛かりとして、一見、教養らしきもの(教養まがい)に思われるが、やはりあるべき教養からはほど遠いものは何か、言い換えれば、何が「教養」と言えないか、という問いかけです。その問いを積み重ねていくことによって、逆に、あるべき教養の姿が浮かび上がってくるのではないかと愚考しました。とくに現代に求められる教養および教養教育について考える場合は有効かもしれません。 例えば、豊富な知識を持っておりクイズ王的物知りは教養があると言えるか。豊富な知性と感性があるが徳性や倫理観が欠如している場合は教養があると言えるか。他者を圧倒する知識を持つ博学家だが「無知の知」を知らず他者を見下し謙遜と感謝を知らぬ人を教養人と言えるのか。芸術にも深い理解を示すが社会的課題には無関心な人は教養人と言えるのか。東洋には古来から仙人的教養人の姿を理想とする考え方があるように思うが、現代の様々な解決困難な問題から目を背け取り組む姿勢が全くない人は、たとえ知識と感性が豊かであっても、現代では教養があると言えるのか。あるいは豊富な知識を持っていても政治や社会的・地球的課題に無関心な態度は教養があると言えるのか。 自分たちの国や社会を何とかしたいという気持ちが希薄なので、そのことが、日本の若者の選挙投票率の低さにつながっているように思いますが、大学を含めて日本の教育は、そういう若者を生み出してきたことに危機感を持たなくてもいいのでしょうか。市民教育、市民的教養という観点から見れば、日本の教育内容や教養概念は、非常に課題が残ると言えます。とはいえ逆に、たんに投票率が高いからといって教養があるとも言えませんが・・・。 何が教養でないかについては、上記の他にもっと多くの事例を出す必要があります。また、多くの事例から、現代における教養とは何かを追求するやり方は、玉石混淆の問いかけが混在するだけに緻密な思考を要します。 極端な物言いをすれば、大学がどういう人材を社会に送り出したいのか、によって各大学における教養の概念も変わるような気がします。本をあまり読まず、教養の意義を理解していない、今の多くの学生に教養の重要性を伝えなければなりません。 そもそも「教養」とか「教養教育」の目的は何か、なぜ教養は必要なのか、なぜ大学教育において教養は不可欠なのか、もし必要なら現代における教養はどうあるべき根本的に再考することが肝要だと思います。何のために大学で学ぶのか、何のために教養を学ぶのか。もし、教養の獲得が、他者と社会の幸福と自由に寄与するものでなければ、あるいは自分の人生と仕事を豊かにするものでなければ、何のための教養でしょう。もし教養の有無が格差社会の助長につながるものになるなら、その教養は自らの内容を吟味しなければなりません。 もし、主体性、生涯学び続ける力、倫理性、課題解決姿勢等も、現代の教養に含まれるとするなら、現代において教養を教養として成立させるためには、科学と人文学以外にも必要な学びの分野があるのではないかと愚考します。 ただ、ここまで書いてきて、以上私が考える現代における「教養」概念に対して、それを「教養」と呼ぶ必要性があるのかという思いも浮かんできました。しかし、教養に代わるパワーのある適切な語、多くの人と共有できる語は、教養以外に思い当たらないような気もします。

 

〇アンケート質問への回答

質問1  ハクスリーは不可知論者だと自分を規定しているようですが、本当の不可知論者に科学ができるのでしょうか。ヒュームの懐疑論などは、通常行われている科学的方法を否定するようなものだと思うのですが。

回答1 不可知論(agnosticism)という言葉自体がハクスリーの造語と言われています。ハクスリーの場合、科学的な見地から実証できない事象については正否の判断を保留するという立場を表現するために不可知論という言葉が使われています。ヒュームの懐疑論では、あらゆる因果関係を否定するため、科学的な方法の否定にもつながりうると思います。一方で、ハクスリーは懐疑した先に自然法則が生じることを期待しており、ヒュームほどは徹底した懐疑論ではなかったように思います。ハクスリーの著作集第6巻(Hume: With Helps to the Study of Berkeley, London: Macmillan and co.,1894)には、ヒュームの伝記的なものも所収されています。そこでは、知性と道徳性の関係についてヒュームから大きな影響を受けたことが書かれており、さまざまな面でヒュームの影響があったようです。

 

質問2 アーノルドの考え方。特に、彼のいう「真実」がよくわかりませんでした。
回答2 アーノルドは、自己のなかにある「最善の自己」を真実と見なし、自己に目を向ける(自己のなかにある「最善の自己」を見ようとする)ために文学が必要になると考えていたと解釈しています。ハクスリーとも共通すると思うのですが、アーノルドにとって、真実(=「最善の自己」)とは、追求し続けることを可能にするものであり、「最善の自己」を見いだし続けようとすることにも価値を見いだしていたのだと思います。そういう意味では、両者にとって、追求する姿勢を生み出すものこそ真実だったのかもしれません。

 

質問3 ハクスリー・アーノルド論争以降は科学教育も含めた教養に関する考え方がどう進展してきたかについても流れが分かると良いと思いました。
回答3 ハクスリー・アーノルド論争の時代であっても、過度な専門化に対する危機感から、幅広い知識を求める声は上げられており、たとえば、ハクスリーとアーノルドがそれぞれに提示した初等教育カリキュラムでも、科学と文学をどちらも含む、幅広い科目が想定されていました。しかし、20世紀に入ってからは、科学「と」文学で教養とは何かを考えるというよりも、科学「か」文学で教養とは何かを考える傾向が顕著になってきているように感じます。その象徴的なものが、ハクスリー・アーノルド論争から約100年後、スノウとリーヴィスの間で生じた「二つの文化(two cultures)」論争だと思います。cultureが複数形になっており、ハクスリー・アーノルド論争と同じように、科学と文学をテーマにしていながら、1つの教養をめぐる議論ではなく、科学と文学という2つの文化の間の議論になっています。こうした変化は、個々の学問分野の専門化が進むだけではなく、科学と文学という大雑把な区分においても、対話が交わされなくなったことを象徴しているように思います。

 

質問4 音楽などの分野とのかかわり(ちょっとだけ触れられていましたが)を知りたいです。

回答4 イギリスの教養史・教養論における音楽の役割・意義については、十分に考察することができていませんが、ドイツの教養史・教養論においては、以下の文献が大変参考になると思います。
宮本直美『教養の歴史社会学:ドイツ市民社会と音楽』岩波書店、2006年。

 

質問5 教養の大切さに気づくのは社会に出てある程度経ってから、と感じていますが、人間の発達の観点からのお話をうかがいたかったです。
回答5 ご質問をいただいて、「人間とは何か」だけではなく「人間はどのように成長・発達するか」という当時の成長・発達観を考慮する必要があると強く感じています。ハクスリーの場合は、具体的な科学、抽象的な文学というそれぞれの科学観・文学観に表れているように、大雑把には具体的なものから抽象的なものへという成長・発達を前提にしていたように思いますが、細かな検討が必要かと思います。貴重なご意見ありがとうございます。

 

質問6 以下に書くことは、今回の講演内容に即していないので、的外れな要望になりますが、本宮先生がご自分の授業等において、目の前の学生たちにどのように教養の意味や教養の重要性を伝えておられるか、たとえ短時間でも、可能でしたら教えていただければ幸いでした。
回答6 大学では、教職科目を担うことが多く、教養論や教養史といった自分の専門について話す機会がほとんどないというのが正直なところです。そのため、「教養とは何か」について真正面から語ることもほとんどないのですが、たとえば、授業で学習指導要領での「生きる力」を扱う際には、ハクスリーやアーノルドによる人生批評としての教養観を踏まえて、人生をただうまく「生きる」だけではなく、よりよく「生きる」ことの重要性を強調し、子どもたちが自らの人生を「生きる」ことの意味について考えてもらうように心がけてはいます。

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