前回の記事(URL: 【活動報告1】新部門の活動が始まりました! – 次世代型大学教育開発センター)でご紹介した通り、私たちの部門では、VR思考実験を活用した新しい形の倫理科目を開発しています。そこでは、VR思考実験が、「リアルな倫理的直観に基づいた倫理学習を可能にする」と述べました。ここで、思考実験に求められるリアリティとは、どのようなものなのでしょうか。本記事では、この問いに応答する形で、VR思考実験の教育的有用性を考えてみたいと思います。
前回の記事でも述べたように、「徳」や「正しさ」といった抽象概念を扱う倫理学においては、通常の自然科学実験が対象とする世界側の事実よりも、我々の心の中にある道徳判断や、その背景にある道徳的直観を確認することが、探究の重要な手がかりになります。道徳的対象は、タマムシの翅の色のように、直接観察可能な仕方で自然界に現前するようには思われないからです。非常に単純化した言い方をすれば、「様々な状況で我々が受け入れる種々の道徳判断を、より多く説明できる理論が、より良い倫理理論である」というのが、倫理学的探究におけるもっともらしい指針の1つになるというわけです。
ここで、特定の状況において我々がどのような道徳判断を下すかを知る上で、最も直接的な方法は、「実際にその状況に身を置く」ことでしょう。しかし、道徳判断が問われるような状況の中には、実現することが現実的でないものも多くあります。例えば、Philippa Footのトローリー問題のように、どの選択をしても必ず犠牲者が生じる状況を、人為的に作るわけにはいきません。また、既存の社会を生きる私たちが、John Rawlsの無知のヴェールが想定するように、自身の社会的地位や能力等を知らない状態で社会設計を考える当事者になることは、実質的に不可能だと思われます。
そこで有用になるのが、思考実験です。思考実験であれば、問題の状況を実際に作り出さなくても、思考さえできれば、道徳判断に関するデータを得ることができるからです。しかし、当然ながら、思考できれば何でも良いというわけではありません。倫理学的探究のガイドになるのは、あくまで「その状況を受けて、我々が実際になすであろう道徳判断」です。実験環境でのみ妥当する行動科学の結果に意味がないように、倫理学的思考実験が人間の道徳実践と乖離してしまうと、その意義はうすれてしまいます。したがって、倫理学における思考実験の方法論的ゴールは、「特定の状況において、被験者が実際になすであろう道徳判断を引き出すように、思考を最適化すること」にあると言えます。これが、思考実験に求められるリアリティの内実です。
この点で、従来の紙面による思考実験には、方法論的制約があります。テクストベースの事例記述は、自然言語による描写と、それをもとにした被験者の想像に依存します。しかし、ある自然言語で与えられた事例記述が、他言語に翻訳されたときに、元と同一の状況を表現できるとはかぎりません。そうだとすれば、その思考実験が想定する「特定の状況」は、かぎられた言語圏に閉じたものになってしまうかもしれません。また、言語的問題をさしおいても、同じ事例記述から、複数の被験者が同じ状況を想像するか、また、そもそもそれができるかは自明ではありません。想像という過程は、個人の志向や能力に依存するため、思考実験で得られるデータの正確性にとって、大きなハードルになりうるのです。
VR思考実験の利点は、被験者の想像を仮想的経験で補える(あるいは置き換えられる)ということにあります。言語を介さずに、思考実験のシナリオを経験可能にするVRプログラムは、事例記述の言語的制約を迂回することができます。また、想像の個人性の問題は、「仮想世界における事実」という共有可能な形式で対象を固定することで、解消できるかもしれません。これらが可能になれば、問題の状況を実現せずに、紙面の思考実験よりも実践に則したデータを得ることできるでしょう。すなわち、VRを利用した倫理学探究のねらいは、「想像を補う/置き換えることで、現実世界の限界を超える」という点にあると言えます。
以上の方法論的根拠に基づき、現在は、VR思考実験の利点を最大限に生かせる倫理科目デザインを構想しています。先のトローリー問題をはじめとする、現代倫理学において影響力のある思考実験のVR版を活用して、伝統的な倫理課題を新しい角度から考察し、その理解を深める授業内容を計画しています。また、さらに踏み込んで、「仮想経験で得られるリアリティは、共感を可能にするか」という観点から、VR思考実験の方法論的可能性と限界を探究する内容も検討しています。共感を促すVRプログラムを題材にして、関連する道徳心理学的知見も織り交ぜながら、倫理学的に考えることそのものについての理解も深められるコースを構想しています。
受講学生のみなさんが、「この科目を取って良かった!」と感じられるよう、開講予定の冬学期に向けて、着実に、科目案の具体化を進めております。




